2009/06
写真の祖 上野彦馬君川 治


長崎県立図書館と長崎公園の間の道路わきに上野彦馬の顕彰碑が建っている。
 長崎駅から市電正覚寺下行きに乗り、築町電停で石橋行きの市電に乗り換える。乗り継ぎ乗車券をくれるのが嬉しい。終点の石橋で市電を降りてオランダ坂の標識に従って左に折れて暫く行くと、東山手洋館住宅群街並み保存センターに出る。石畳の急な坂道である。ロシア人、イギリス人、アメリカ人が住んでも長崎の人はオランダ坂と呼ぶそうだ。明治30年代に建てられた外人専用の賃貸住宅が7棟保存されており、歴史資料館、埋蔵資料館があるが、3棟が古写真資料館である。
 古写真資料館には上野彦馬が撮影した長崎港や町の風景写真、長崎港に来航した各国の艦船や帆船の写真、坂本竜馬や勝海舟、榎本武揚など幕末・維新で活躍した人物写真などが展示してある。写真館なのに残念ながら写真撮影禁止である。
 写真機発明の基となったカメラ・オブスキュラの模型があり、ハンドルを回してガラス面に外の景色を映し出して見る装置がある。上野彦馬が使用した写真機や機材などは一切展示して無いのは残念だ。
 上野家は代々肖像画を書く絵師で、彦馬の父上野俊之丞は奉行所に出入りする時計師でもあり、シーボルトに師事した蘭学者でもあった。日本で最初に写真機を購入し、これが島津斉彬に渡った写真機だそうである。
 上野彦馬は進歩的な家庭環境、多くの蘭学者の学ぶ都市環境、オランダ人から蘭学を直接学べる教育環境の中で育った。彼は幕府天領の日田にある咸宜園で学び、長崎に戻りポンペの医学伝習所に入り、舎密試験所で化学を学んだ。化学の教材の中に写真術の説明があり、同僚の堀江鍬次郎や教師ポンペと共同研究をして写真の撮影に成功した。
 成功した写真術は湿板写真であり、感光乳剤を塗布したガラス板で撮影し、これを現像したのち像を定着する。次に印画紙を作成して感光・現像・定着をして写真として仕上げる。彦馬の凄いところは感光剤や現像・定着に使用するエチルアルコール、硫酸、アンモニアなどの薬品類を自ら製作したことだ。例えばアンモニアを作るには肉のついた牛の骨一頭分を土の中に埋めて、腐り始めた頃掘り出して釜に入れて抽出し、これを蒸留して作った。
 1862年に自宅に上野撮影局を開設して写真撮影を開始した。彦馬が写真撮影に成功した裏には先に述べた堀江鍬次郎の存在が大きい。堀江は津藩の藩士で、藩命により長崎遊学していたので、写真研究費用を藩主藤堂高猷に願い出た。150両の大金をカメラ購入費として出してくれた理解のある藩主である。このお礼のため、彦馬は津藩校有造館で蘭学と化学の講義をしている。
 古写真資料館の一室に上野彦馬の活躍した功績について説明があり、有造館で使用した化学の教科書などが展示してある。説明によると彦馬は「舎密局必携」なる化学教科書を執筆・出版している。
 上野彦馬は写真家であると同時に化学者であり、プロセスを大切にする実験科学者であった。
 写真の歴史を紐解いてみると、最初はカメラ・オブスキュラのようにガラス面に映像を映し出す光学装置、次はこの映像を取出す研究が盛んとなり、1839年フランスのダゲールが発明した銀板写真が写真の最初だ。次は上野彦馬が研究した湿式写真で、ガラス板に感光乳液を塗布して乾かない内に撮影する。次が乾板写真、フィルムとなる。コダックの発明である。この間、写真機は光学装置であるとともに現像・定着などは化学プロセスであった。現在は感光面をCCD受光板とし、電子メモリに映像を保管する電子装置へと大きく転換した。フィルム写真のようにプロのDPE屋に依頼することなく、自分でパソコン上で画像処理が出来ることは画期的なことである。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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